東京大学の歴史

2021.04.02

大学概要

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東京大学の名称の変遷


東京大学の設立と現在

東京開成学校と東京医学校が合併し、法学、理学、文学の3学部と医学部および予備門(第一高等学校の前身)で構成される東京大学が誕生しました。当初は法、理、文3学部が神田錦町に、医学部が本郷元富士町にありました。

以後、工部大学校や東京農林学校等、さまざまな学校と合併しながら総合大学となり、何回か改称してきました。2004(平成16)年、国立大学が法人化され、国立大学法人東京大学になりました。

現在、東京大学は、10の学部、15の大学院研究科、11の附置研究所および学内共同教育研究施設、学際融合研究施設、医学部附属病院など、さまざまな組織や施設等で構成されています。また、これらの施設は、本郷・駒場・柏の3つのキャンパス以外にも、全国に広がっています。
 

本郷地区キャンパスの歴史

江戸時代、本郷キャンパスはほとんどが加賀藩の江戸屋敷であり、病院のある敷地は富山藩と大聖寺藩、弥生キャンパスと浅野キャンパスの大部分は水戸藩でした。現在の構内にも多くの史跡が残されていますが、赤門(正式名称:旧加賀屋敷御守殿門)や三四郎池(正式名称:育徳園心字池)はよく知られており、名所にもなっています。

明治期に建てられた校舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災によって大部分が崩壊してしまいます。そこで、翌年から内田祥三(工学部教授、後の14代総長)を中心に復興計画が進められ、昭和10年代には現在のような本郷地区キャンパスが形成されました。また、戦争による被害が少なかったので、ウチダゴシックとも呼ばれる統一されたデザインの建築群が今に残っています。
 

駒場地区キャンパスの歴史

古くは駒場野と呼ばれた駒場地区キャンパス一帯は、徳川8代将軍吉宗のころ(18世紀初め)から、将軍家の御狩場になっていました。薬草園もその一部にあったようです。この御狩場の広さは50ヘクタールもあり、現在の駒場公園や先端科学技術研究センターなどの敷地も含まれていました。敷地内には湧水もあり、ささやかながらかつての武蔵野に思いを馳せることができます。

明治に入って、1882(明治15)年、この地に東京大学農学部などの前身である駒場農学校が開かれました。これは、その後東京帝国大学農学部と改称されました。この農学部時代の建物は、一部第2次大戦時に焼失し、そのほかはその後取り壊されて現在は残っていませんが、いま駒場キャンパスがゆたかな緑に包まれ、珍しい樹木が数多く見られるのは、こうした歴史によるものです。

1935(昭和10)年、本郷キャンパスの隣地、現在の農学部の敷地にあった第一高等学校と、当時の東京帝国大学とのあいだで敷地交換の話がまとまり、双方の移転が行われました。戦後、第一高等学校が東京大学に継承されたのに伴い、このキャンパスが本学の敷地となり、教養学部等が設置されました。
 

柏地区キャンパスの歴史

江戸時代の柏地区キャンパス一帯には、幕府の軍馬育成機関、小金牧が広がっていました。ここには多くの野生馬が生息し、鹿狩りの舞台ともなる自然あふれる地域でした。終戦後、一時は引揚者入植地となりますが、朝鮮戦争勃発後に米軍に接収され通信所が設置されます。そして、1979(昭和54)年に返還されると、跡地利用の一環として、東京大学の第三の核となる柏キャンパスがつくられました。

1990年代、東京大学は21世紀にむけた学問とキャンパスの再編を検討し、「三極構造」を提唱します。伝統的な学問の核をなす本郷と、学際的教育・研究を推進する駒場を既存の二極とし、「学融合による新しい学問領域の創造」をめざす拠点(第三極)として柏キャンパスを位置づけました。1996年には起工式を行い、2000年の物性研究所、宇宙線研究所の移転・開所を皮切りに、現在も未来を切り拓く研究・教育の場として、機構・施設の拡充が続いています。

文/「東京大学大学案内―東京大学で学びたい人へ」より