ちょっとひといき ちょっとひととき(11)-わたしの地元、わたしの暮らし
東大生コラム 2024.08.30
2022.05.06
テーマを絞って発信する東大生のコラム企画
第2回目のテーマは「拝啓、中高生の頃のキミへ」。あの頃を振り返る瞬間は誰にでもありますよね。もし、タイムスリップできたら、あなたなら、中高生の頃の自分に伝えたいことは何ですか?今だから感じる、その気持ちをコラムにしてお届けいたします。
自分の長所を一つ挙げてみてほしい。きっと、「目標と真摯に向き合い、その達成のためにストイックに努力し続けられること」を挙げるだろう。確かにこれは誰もができることではなく、自分の強みの一つだ。
しかし、ここで問いたい。努力する姿勢を自分を正当化するための武器にしていないだろうか。頑張っているのだから、その妨げになりかねないあらゆるものは排除して良いのだと思っていないか。勉強時間の捻出のために家族との会話や食事の時間を削る自分をどこか誇らしくさえ思っていないか。
努力できることを周りから褒められるからといって自惚れるな。このままずっと自分の目の前のことだけで手一杯にし続けていくと、本当に大切にすべき価値を見失うことになるだろう。そもそも努力できたのは様々な方の理解と支援のおかげであり、感謝の気持ちとそれを行動で示すことを決して忘れてはならない。 それでも、キミは東大に入るには時間を無駄にできないのだと反駁しかねない。しかし、周囲を見渡せるほど心の余裕を持つことこそが成功の鍵なのだ。
こんにちは。あなたは今、勉強に打ち込みまくっているところですね。中学時代何度も怪我して、もう運動部は怖い。書道はあんまり行く気にならない。文章を書くのも上手くない。いろいろな理由を並べて、好きなことを全部放り投げて、自分の時間を勉強一色にしようとしている。
あなたの気持ちはわかるよ。プレッシャーがあるのもわかっている。自分は1つのことしかできないから、なら勉強に絞るしかないって思っているんだよね。
でも、よく考えてみて。勉強は高校3年間で終わりじゃないんだよ。大学に入っても続くんだよ。ずっと勉強だけなんて、耐えられる?それに、自分の物差しを勉強だけにしてしまっていいの?それって実はすごく危ないよ。自分を測る物差しを1つだけにしてしまったら、それで上手くいかなくなったときに辛いよ。
あなたは本当は、色々なことが好きな子のはずです。どうか、その好きだという気持ちを大事にしてほしい。回り道をしたっていい。好きなことを楽しんで、心も体も元気でいてください。
私は18年間、1時間に1本しか電車が来ない田舎に住んでいた。盲目的に東京に憧れていた。たまに行く東京は私にとって、キラキラして見えた。田舎は街灯も少なく暗いけど、東京は文字通り、夜まで光が瞬きキラキラしている。当然、大学も東京に絞って探し、今ここにいる。
そんな今、声を大にして田舎も悪くないと言いたい。
もちろん、初めての夜は、東京の自分の部屋の窓から見える夜景に興奮した。しかし、東京は情報が溢れ、上京早々、視覚も聴覚も嗅覚もキャパオーバーになった。感覚を狭めなければ、東京では生きてはいけないと悟った。
それでも、しばらくすると、東京に来てから、変化が面白く、つけていた日記も徐々に数が減っていった。変化だと感じていたことにさえ、気づかなくなってしまった。東京にも慣れてきたのかも、東京の人になれているのかもと思うと少し嬉しい気がしたのと同時に色んな感覚が鈍くなっているようで、少し寂しさを感じた。 結局はないものねだりだが、どこに住んでいても、早くその町から出たいと思っていても、今いる町を少しだけでも楽しんでほしいと、今の私は思う。
地球科学の研究に進むつもりで、理科一類に入学した。中高では地理には関心があったが、しかしいわゆる「文系」に進もうという気はなかった。ところが、今の関心は社会科学に向いている。そして教養学部の科学技術論コースなるところに在籍している。 なぜかと思ったなら、「文系」と「理系」とが全く異質なものという理解をしているのではないだろうか。すなわち、理系の科目は自然の法則や真理を学ぶという側面が強いのに対し、文系は社会の制度や過去に起きた事実の暗記、という印象があるのではないだろうか? 「文系」のうち少なくとも実証主義をとる社会科学では、事実や制度を理解することは最初の一歩に過ぎない。それらが他のことにどう影響するのか?なぜそうした制度がとられたのか?といった、ある物事が他にどんな作用をもたらすかという法則のようなものを考えているのである。この点の共通性にはっとしたことが、私が社会科学の門を叩く大きな契機となったように思う。ぜひ大学の政治学や社会学の理論を覗き、経験主義的な社会科学の世界を見てほしい。
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