新型コロナウイルス禍――今、東大生は考える(18)
コロナ禍の東大 2021.11.01
2021.02.18
#新型コロナウイルス感染症 #新型コロナウイルス感染症 #オンライン授業 #オンライン授業
異例の大学生活に直面した東大生のショートエッセイ 第10回
2020年から始まった新型コロナウイルス感染症の流行を受け、東大では授業はもちろんのこと、学生の交流や課外活動にも大きな影響が生じています。様変わりした大学生活を送る中で感じたこと、考えたことを、東大生に綴ってもらいました。
“Let Us Continue.”
1963年11月、ケネディ大統領暗殺という異常事態に際して大統領に就任したリンドン・ジョンソンは議会での演説でこのように語った。華のないこの大統領は、翌年公民権法に署名することになる。
いまできること、いますべきことを着実にこなしていくことで初めて、何かを成し遂げることができるのだろう。それはともするとつまらない日々かもしれない。それでも、そんなつまらない日々をきちんと積み重ねることこそ、本当は大切なのだと思う。
「コロナ禍だからこそできること」なんて気張る必要はない。華々しさなんていらない。焦らずじっくりと日々を過ごしていこう。
昨春から、ステイホームの時間が多いからこそできていること。それは、大好きな楽器の練習です。
高校1年の部活選びのときに初めて出会ったイタリア発祥の楽器、マンドリン。現役のころにはマンドリンオーケストラの中で、マンドロンチェロという大きい楽器とさらに大きなコントラバスとを担当していました。でもこれでは場所を取る上に値段も高くてとても買えないということで、部活の引退後に購入したのが小さなマンドリン。受験勉強に病んだときに気分転換ができるように、というのが当初の目的でしたが、家にいる時間が増えた昨年、予習や課題がよほど忙しくない限りは1日30分の練習を習慣とするようになりました。
もちろんこれだけの練習では、この1年弱で演奏技術がめきめき上達して…などと書けるほどにはなっていません(笑)。でもこれからも少しずつ、楽しみながら練習を重ねていきたいと思っています。
2020年4月。緊急事態宣言が発令され、キャンパスへの立ち入りも制限。私たちの大学生活はどうなってしまうのか。不安につつまれた状況の中、前を向いて立ち上がった仲間がいました。ボイス・オブ・ユースJAPAN(VoYJ)の事務局メンバーです。
VoYJとは、東大生らユースがUNICEF(国連児童基金)東京事務所・日本ユニセフ協会と協働し2018年10月に立ち上げたオンラインプラットフォームで、日本全国のユースの思いを集め発信し、つながる場となることを目標に活動しています。
2020年6月には、全国各地の多様なユース30名以上が参加する「VoYJ全国ユースおうち会議」をオンライン開催し、COVID-19に関する思い・悩みを日本各地の同年代のユースと共有する場を作りました。当初は感染症の流行によりオフラインでの集まりが困難だったためにオンラインで実施されましたが、物理的な距離を超えてより多様なユースに参加してもらうことができました。VoYJでは、オンラインイベントを対面イベントの代替としてではなく、新たな選択肢として認識し、継続して開催することを考えています。
VoYJはこれまで2年間の活動を通して、全国各地のユースの声を集めてきました。これからもサイレントマジョリティー・サイレントマイノリティーと呼ばれる、今まで届きにくかったユースの声に耳を傾け、誰一人取り残さないプラットフォームを作ることができるように、今後も活動を続けていきたいと考えています。
本学学生の間で「つよいひと」という言葉が使われることがある。「つよいひと」とは、学内でもその分野で、あるいは全般的に、特に能力が秀でている人のことである。
私は、オンライン授業に「つよいひと効果」と呼ぶべき現象があるのではないかと思っている。教室では聴講する学生はみな視界に入り、自分と同じレベルの雰囲気の人を感じるものである。近くの「つよいひと」に聞くということも、教室ではできた。
一方、オンラインでは確かにわざわざ教室まで移動する手間もかからないし、特にその分野に得意な人はチャットも使えて発言や質問もしやすい。ただ、理解が進んでいない人はオンラインでもやはり発言しないことが多く、オンラインではそのような人の存在は目に入りにくいから、普通の人が「つよいひと」の存在感に打ちのめされるのではないだろうか。
教室とオンラインの好みはざっくり半々と言われる。ただ、オンラインの長所は上に述べたような「つよいひと」の方が感じやすいことも多分にあるのではないだろうか。全体の傾向ではなく「つよく」ない人の学習効果という面からのオンライン化の影響の研究を、是非とも期待したいものだ。
家にいることの多かったこの期間,私は200本弱もの映画を鑑賞しました。あまりこれまで触れてこなかった洋画をたくさん見ることに。映画を見ていると,文化や歴史など学ぶことが意外と多いです。制作した国では当たり前とされていることが,私の目には新鮮に映り,邦画とはまた違った楽しみ方ができると感じました。
日常が奪われてしまったこの一年,当たり前のありがたさを改めて実感した人も多いと思います。大変なことや悲しいことも多いけれど,当たり前から離れられる機会はそう多いものではないはず。自分にとっての日常がどういうものであったのか,どれだけ価値のあるものであったのか,見つめなおす時間を作っていきたい。映画をきっかけに,そんなことを考えるようになりました。
コロナ禍でも明るく!オンラインを活用して今できることを一生懸命に!
この1年、そんな言葉をたくさん聞いた。私も自粛が始まった当初は同じように思っていた。時間がある分、たくさん本を読もうとか、語学の勉強してみよう、とか。
でも実際はどうだ。コロナ禍でも前向きになんて、本当に難しい!!!!
授業は結局1年間ほとんどオンラインで、1人でパソコンに向かう日々。好きなアーティストのイベントは軒並み中止だし、なかなか満足には友達にも会えない。新しいことに挑戦する気力なんて、ほとほと出てこなかった。
気づいたら初めて緊急事態宣言が出されてから1年が近い。この1年、私、何してた…?いま向き合うのが1番苦しい問い。いつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないし、いい加減コロナを言い訳にするのはやめていまできること、やらなきゃいけないことに取り組まなきゃってわかっているけど、いまだに立ち止まったままの私。行き場のないもやもやを、消化できずにいる。
実家暮らしの私にとって「おうち時間」の増加はすなわち、家族と過ごす時間の増加を意味している。友人と遊びに出かける「当たり前」が失われたのは残念だが、その一方で、家族と何気ない日常を過ごす「当たり前」に気付かされる今日この頃でもある。
年末からは母親と台所に立つようになったが、感謝と尊敬が深まるばかりだ。伝授してもらいたい技も山のようにある。大晦日には父親と障子を張り替えたが、阿吽の呼吸で黙々と進める作業はとても気持ちがよかった。兄弟でのコミュニケーションも増えたように思う。中でも、歳の離れた弟と全力で煽り合えるようになってきた。
卒業後の進路は未定だが、今の実家で暮らす期間は短ければ残り十数ヶ月だろう。そう考えると途端に寂しくなるし、何気ない毎日が余計に愛おしい。この小さくて大きな幸せたちを抱きしめて、暖かい季節を迎えたい。
参考リンク
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