ちょっとひといき ちょっとひととき(11)-わたしの地元、わたしの暮らし
東大生コラム 2024.08.30
2023.07.07
テーマを絞って発信する東大生のコラム企画
第7回目のテーマは「グッときた、あの人のあの言葉!」。誰かの言葉でグッとくる瞬間は誰にでもありますよね。今回は、東大生の心に響いたちょっとした一言や歌詞、セリフなどをグッときたエピソードとともにご紹介いたします。その言葉を胸にまだまだ突き進んでいきます!
将来について、みなさんも一度は悩んだことがあると思います。 向田邦子のエッセイ「手袋をさがす」は、私が一番悩んでいた時期に、暗闇を照らしてくれた作品です。大学三年生の、就職活動が始まる頃でした。周りの友人には目標とする企業や職種があり、会話の内容は説明会やインターン一色になりました。私は、大学院に進んで研究を続けたい気持ちを胸に秘めていました。しかし、将来の不安や家族からの期待、友人たちとの比較によって、打ち明けることが出来ませんでした。就活を始めてもなかなか身が入らず、焦りと不安だけが積もり窒息してしまいそうでした。そんな時に、この作品に出会ったのです。「手袋をさがす」は、向田邦子が生き方を決断した際のエッセイです。欲しくなる手袋を探し続けた彼女は、ほどほどな幸福よりも、貪欲に「面白い」を追求する人生を選びました。人生において正解はありませんが、この言葉は私に勇気と覚悟を与えてくれました。
これは私の父がよくかけてくれた言葉です。単発的に瞬時にグッときたというよりは、ずっとこの言葉に救われてきたというような言葉です。父は、私が思うように勉強が進まず落ち込んだ時、論文を書いていてどうしても文章に詰まっている時、計画通りに物事が進まないと感じる時、この言葉をかけてくれます。 完璧主義の私は、物事が進まない時にいつも自分を責めてしまいます。そんな時に、「0じゃなければいい」といわれると、心がすっと軽くなり、自分を認めることができるようになるのです。そして、また頑張ろうと思えるようになります。しかし、この言葉は単なる甘えの言葉ではありません。0じゃなければよい、すなわち、1でも2でも、必ず前に進まなければならないのです。そういう意味で、厳しい言葉でもあります。 皆さんも、思うように物事が進まない時は多々あると思います。そんな時は、この言葉を心のどこかで思い出してもらえれば幸いです。
昨年、私は手術を受ける程の怪我を部活中にしてしまい、同期の皆が新しいことを練習して上手くなっていく中、自分は稽古を見るだけの参加で自分が実技面で置いていかれて差が広がっていることに辛さを覚えていました。その時に先輩がかけてくれたのがこの言葉です。自分のプライドから途中で諦めるというのが嫌だったし、周りの皆に努力不足ではなく、追いつけないことが辛い時期だったので気持ちが凄く楽になりました。
常に100%の状態で全てのことに臨む必要はないし、途中で辞める事は別に悪いことではないということに気づかされました。受験などで「志望校を諦めるな!」「全力で勉強!」と言われてきたからこそ、大学に入ってからも「諦めること=悪いこと」のように思えていましたが、せっかくの大学生活、いろいろなことに挑戦する選択肢もありだと感じています。
私は躰道をやりたい意思があって部活に所属し続けて先日6ヶ月ぶりに動き始めましたが、この言葉はほかにもいろいろな事に挑戦し始めるきっかけになりました。
直訳すると、痛みなくして得るものなし、となるこの⾔葉に、⾼校3年⽣の時にグッときました。当時、受験勉強が⾟くて、受験をもう辞めたいなと思っていました。このことを察したのか、夜ご飯を家族で⾷べている時に、⺟親が急に東⼤でやりたいことを、私に聞いてきました。私は突然のあまりびっくりしたのですが、⾃分が⼩さい頃から抱いていた夢と関連づけながら、この質問に答えました。答え終わると⺟親は、「No pain No gain」 という⾔葉を紹介しながら、夢を叶えるためにはある程度の痛みが必要で、その痛みを今感じているのだと⾔ってくれました。この時、⾃分の中で将来のために受験勉強をしているのだと⼼の底から感じることができ、受験勉強の憂鬱さが⼀気に吹き⾶んで、再び勉強のやる気スイッチが⼊りました。今でもこの⾔葉は、⾃分が頑張る原動⼒となっており、何かしたくないことをしないといけない時は、この⾔葉をしみじみと噛み締めながら、⾃分を励ましています。
これは私が好きなある曲の歌詞の一部です。思うようにいかなかったり、うまくできなかったりして、辛い思いになることは誰しもあることだと思います。辛くなって下を向いてしまったり、歩みを止めてしまったりしたとしても、今まで頑張ってきた自分という存在は、常に自分の味方でいてくれる。だから、たとえ今という瞬間が辛かったとしても、自分を信じてもう一度進んでいこうという解釈ができる言葉です。
私は何かに悩んだときには、曲を聴いて、この言葉を思い出すようにしています。特に、大学受験はこの言葉のおかげで乗り越えられたといっても過言ではありません。勉強の結果がうまく伸びず、自分に自信が持てなくなり、このままで大丈夫なのかと不安になったとしても、「ここまで頑張ってきたんだから、きっと大丈夫」と思い直して、再び前を向くことができました。試験当日、この曲を聴きながら見上げた安田講堂の姿は今でも目に焼き付いています。
これは私の大好きな作品、『進撃の巨人』に出てくるセリフです。私がこの台詞に出会ったのは、受験期の高校三年生のときでした。当時は、東大を目指しながらもなかなか勉強に身が入らず、努力できない自分にも嫌気が差していた頃でした。そんな時に、偶然見ていたのがこのアニメでした。このセリフは、戦いのためには人間性までも捨ててしまうという登場人物のことを指して使われています。これは一見、自分には関係ないようにも思えます。しかし、裏を返せば「手放すことができない人は、何も変えることができない」と言っているのです。
受験期にもかかわらず、家でダラダラ過ごしてしまっていた私にとって、この言葉は深く刺さりました。東大に合格するためには、「YouTubeもSNSもやめて勉強に打ち込まないといけないぞ!」と背中を押されました。
これは高校時代にお世話になった塾の先生から言われた言葉です。当時は言葉の意味がピンときませんでした。私は理科二類だったのですが、教養学部の前期課程時代に生物・化学・物理・数学全てに触れたことで、その言葉の意味を実感しました。例えば生命科学(生物)では生体内での化学物質の輸送・変化についての勉強が大部分を占めていました。物性化学では電子の分布から分子の構造を推定するなど、高校物理の電磁気の知識がフル活用されていました。そして数学は数字が中心の教科から、「定義=根本となるルール」から派生するように定理や命題を示す、文字や記号中心の教科と化しました。現在、私は物理工学を専攻していますが、目にする論文は積分記号や文字式など大量の数式で溢れています。まるで科目がすり替わったかのように感じ衝撃を受けました。大学での学びを深めていく過程で、科学の各分野が融合している様相を垣間見ることができました。
私のグッときた言葉は、「東照公御遺訓」です。東照公は、徳川家康のことで、諸説はありますが、上の遺訓は、家康が遺した言葉だと伝えられています。「人生は重い荷物を背負って長い道のりを歩くようなもの」という最初の一節は、どこか家康の人生を象徴しているようで味わい深いです。
この言葉に出会ったのは、中学生のときで、宿泊学習で訪れた日光東照宮のチケットの裏に書いてありました。それ以来、何となく気に入って、家の机の前に貼ってときどき見返していました。「他人のせいにしない」、「何でもやり過ぎは良くない」など、ここに書かれたことは現代にも通じるもので、今でもいつもこの言葉を心に留めています。
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