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2018.10.03
長年、東大で教鞭をとり、現在は国文学研究資料館長を務める国文学者のロバート キャンベルさん。「日本人以上に日本を知る人」と言われてきたご自身の経験をもとに、言葉のボーダーを越えた時にこそ必要とされる教養について新入生に語った祝辞を、ダイジェストにまとめてみました。
「いくつものハードルを越え、この大学を選び、そして多くの家族や友人の祝福を受けながら、今日ここに集まった新入生の皆さまに、心からのお祝いを申し上げたいと思います」
祝辞の冒頭、そのようにお祝いを述べたロバート キャンベルさんは、まずご自身の生い立ちについて語ります。
「わたくしはアメリカで育ち、皆さまとほぼ同年齢で日本語に出会い、その日本語を使ってどう生き、何を生業とするかを真剣に考えた末、日本文学の研究者になることを選びました」
「しかし歳月は、いいことばかりを運んでくれるわけではありません。山や川よりも人の心、とくに心に測り知れず大きな力を及ぼす言葉のボーダーを越え、人と共に学び、働き、愛し合うことの難しさについて、気づかされることも多くありました」
そうしたご経験から、二つの興味深い問いを投げかけます。その一つが、「人が他者を理解しようとボーダーを越えた時、その行為が寄り添うこととして喜ばれるのか、それとも行き過ぎた文化への立ち入り、英語でいうcultural appropriation に当たる、無神経な模倣や真似として否定されるのか」という疑問です。
この問題を考えるヒントとして、キャンベルさんの身近に起こった3つの事例を紹介します。1つは、故郷ニューヨークのブルックリン美術館で起こったこと。同美術館がアフリカ芸術部門の学芸員に31歳のアメリカの白人女性を採用したところ、ある活動家団体が即刻解雇を要求したという出来事です。
もう1つは、キャンベルさんの知人で、長くドイツに住む多和田葉子さんという作家の身の上に起こったエピソードです。多和田さんは数年前、福島の原発時を取材し作品を書いたところ、当事者ではない人が書くべきではないと思っている人がいることを知った、というエピソードです。
そして3つ目は、「日本人以上に日本を知っている」と言われてきた、ご自身の体験です。この言葉に対してキャンベルさんは、「日本人以上とは論理的でないよね?」と冷淡な抗いを感じつつも、他方で相手の偽らざる気持ちを想像して、共感を寄せざるをえないとの心情を語りました。
もう一つの問いかけは、共感や思いやりといった気持ちが、具体的にどういう条件のもとで人の幸せに繋がるのか、繋がらないのか、ということ。
ここでアメリカのオバマ前大統領がかつて語った、『イスラエルとパレスチナの問題は「お互いが相手の靴を履いて地上に立った時に初めて解決されます」(when those on each side “learn to stand in each other’s shoes”)』という言葉を紹介します。
ただし人の履き物をはいて地上を歩き続けるのは容易なことではないとキャンベルさん。さらに一冊の本を紹介します。それは『豊年教種』という江戸時代の書物。
キャンベルさんはこの本のことを江戸市民が大飢饉に直面する最中に書かれ流通した、一種のサバイバルマニュアルであり、読者に、一番困っている人たちにどう接触すればいいかということを説いている本だと紹介します。
「人にいいことをしようとして、かえって自分の信用を落とし、幸福をすり減らしてしまう危険性を、この本の著者は有事の際にこそリアリティ溢れるディテールで述べ切っています」
ボーダレス化が進む現代では、相手を理解すること、思いやることが重要視されています。そこで問われるのが「他者と渡り合っていく一人ひとりのバランス」であるとキャンベルさん。
「このバランスを支えるのは、他でもない、『教養』だと思います」
エビデンスとは無縁の主張で「共感」をあおるフェーク・ニュースが世界に広がる中で、私たちは大学で何を学ぶべきか。キャンベルさんは祝辞を次のように締めくくりました。
「頭とからだを使って、自分が好奇心をもって向かおうとしている目標について他者に説明する言葉を磨くこと。ファクトを切り出して、論理と共感というきわどいバランスをその都度に繰り出すスキルを身に付けることに尽きると思います。これが本来の教養であると、わたくしは考えます」
ロバート キャンベル氏の平成30年度入学式「祝辞」の全文はこちら