新型コロナウイルス禍――今、東大生は考える(18)
コロナ禍の東大 2021.11.01
2021.02.06
#新型コロナウイルス感染症 #新型コロナウイルス感染症 #オンライン授業 #オンライン授業
異例の大学生活に直面した東大生のショートエッセイ 第9回
2020年から始まった新型コロナウイルス感染症の流行を受け、東大では授業はもちろんのこと、学生の交流や課外活動にも大きな影響が生じています。様変わりした大学生活を送る中で感じたこと、考えたことを、東大生に綴ってもらいました。
前回のコラム(一番上の「スキマ時間の効用」)で、「セレンディピティserendipity」を「偶然の幸運」と訳した。広辞苑によれば、「思わぬものを偶然に発見する能力」や「幸運を招きよせる力」という意味である。
誤解を恐れずに言うならば、人生は偶然の連続である。いや、偶然というものはないのかもしれない。決して運命論者ではないのだが、どこに生まれるかに始まり、誰と出会うか、どの学校に通うか、どんな食べ物が好きか、どんな趣味を持つか、いずれも自分の意志でコントロールできない部分は大きい。そう考えると、人生は偶然の連続であり、すべてが偶然であるとするならばそれはもう必然と考えたくもなってくる。無数の選択肢の中のひとつを選んで今があるとしたら、それは偶然たる必然。
セレンディピティから話が逸れてしまったが、目の前の選択肢を、その時は精一杯悩んで選んで、後から振り返ったときには「そういえばあんなこともあったなぁ」と思えるように、楽しみながら生きていきたいものである。
人文系の学問は”机上の学問”と揶揄されることがあるが、新型コロナウイルスの流行により字義通り”机上”になったと思わされる。レポートを書くとき、図書館を使える状況にない人もいるだろうから論文探しはネットから拾ってできる範囲でいい、と言われることが多くなった。関連論文や書籍を探す手間も時間もなく、パソコンさえあれば書けてしまう。楽かもしれないが、楽しくはない。
外に出ないので偶然の出会いがなくなった気がする。もちろんたまたま会った友人との偶発的な会話すら生まれない。大学院への進学を考えていた時期もあるが、もしオンラインの状況が続くならば諦めようと考えている。偶発的な会話がない状況では、他人の意見に触発される機会も減少するのではないか。大学院進学後の2年間を現在と同じように家で過ごすには迷いがある。とはいえ悲観ばかりしていられないので、今日も机に向かいながらコロナが終息する日をひたすら待ち望んでいる。
私はコロナ禍を機にオンライン・コミュニケーション(遠隔での会話やメッセージのやり取り)とオフライン・コミュニケーション(直接会って話すこと)をよく比較するようになりました。オンラインは、どこからでも参加できるため、移動時間や会場確保の手間を削減でき、非常に効率的ですが、通信環境の影響を受ける点、同時に一人しか発言できない点など、不便さも感じます。それに対し、オフラインは、コロナ感染リスクがあり、移動時間や外出の支度・片付けの手間がかかるものの、相手の様子を直に感じ取ることができ、「阿吽の呼吸」が取りやすくなります。オンラインの効率の良さも捨てがたいですが、やはり人と直接会ってお喋りする機会も大切にしていきたいなと感じました。
この世の中に起きていることの原因を探すのが好きな私は、コロナが流行する原因を考えてみた。ウィルスの感染率や変異のスピードなどはよく議論されているが、地球人口が多すぎるのも原因の一つではないだろうか。
多数の研究分野は、例えば医療科学の発展、便利なツールの発明、人類社会の経済や言語の研究など、人を中心として発展し、世界の人口増加を支えている。しかし、人口が増えすぎると、人口密度が高くなり、コロナのような感染症だけでなく、温室効果ガスの排出量も増え、地球温暖化など色々厳しい問題が起こり、地球がそこに住む人々を支えていくことが難しくなるのではないだろうか。
よって、コロナ禍は現在の医療技術の不足を表すだけではなく、全世界の人口問題も表しているように思える。人間と自然が長く共存するために、今の世界では、人口問題への対策と、地球環境の保護を昔より重視すべきだと、私は考えている。
コロナ禍の今、不思議なことですが、親しい人と交わす他愛のない話の大切さに想いを馳せています。私は元来人の話を聞くのが好きで、小学生の頃から休み時間には友人の話に笑い転げ、さらに大学の授業では教授の余談しか頭に入りません。他人の他愛のない話(他他話と略しましょう)は主に①他人の噂話②TV、映画などのエンタメ③自分の笑い話・愚痴等から成ると思うのですが、①はともかく②からは「世間」が、③からは人々の生き様や悲喜こもごもが浮かび上がる点において、人情のエッセンスと言えるかもしれません。話が大きくなりましたが、今回の感染拡大の脅威の一つに「会話の落とし所を決定する」という要素があると思います。近年の他他話の帰着として、コロナのことを話してしんみりとする空気が頻出しているのです。もちろんそれは悪いことではありません。不安は話して解消すべきです。ただ、かつてのような純粋に他愛のない話は市井から消えつつあるのではと少し危惧しています。くだらない話、他愛のない話を思い切りできる世の中の再来を祈りつつ、最近はラジオがもつ他他話のフロンティア性に気づいたりもしています。
オンライン授業となってから、私は地方の実家に滞在している。
実家で外出する場所は近くのスーパー、本屋、あとは散歩に出るくらいだ。東京の友達にも会いたいが、今は我慢である。
しかし、Instagramを見ていると、結構普通の暮らしをしている人もいるようだ。少し前のことだが、Go To トラベルを使って旅行に行ったことを楽しく語ってくれた友達もいた。違和感があった。
SNSはこれ以上見てもいいことはないと思ったのでログアウトした。
「他人はコントロールできないものである」と思って生きるとストレスが少なくなると読んだので、最近はそのようにしている。
自分の趣味と程よい田舎でのヒーリング期間だと思ってのんびり生きてみようと思っている。
忍耐力がついたコロナ期間である。
参考リンク
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