考える東大生 感じる日々―新型コロナウイルス禍のなかで(2)

2020.10.08

東大生コラム

#新型コロナウイルス感染症 #新型コロナウイルス感染症

異例の大学生活に直面した東大生のコラム企画

2020年、新型コロナウイルス感染症の流行を受け、東大の授業はオンライン授業が中心になり、学生の交流や課外活動にも大きな影響が生じています。様変わりした大学生活を送る中で感じたこと、考えたことを綴ってもらいました。

周回プレイはできないから

文科三類2年 つっこ

 
引きこもり、大得意なんです!むしろ、外に出なくていいなんて私にとってはご褒美のような日々。家に籠もってゲーム三昧!やりたかった「UNDERTALE」も全ルートできたし「人喰いの大鷲トリコ」もクリアしてエンディングではギャン泣き。それから映画もいっぱい見ました。原典講読の授業で扱われた古典ミュージカルとか、大好きなティム・バートンのとかホラー映画とか。とにかくたくさん。美学を志すわたしにとって、感情を動かすこと、あらゆる美的な体験はすべて思想の糧です。人生、長くても100年ちょいで、「強くてニューゲーム」な周回プレイはできないから、この初見プレイでトロコンしたい。回収しなきゃいけないイベントはいっぱいで大変ですが、大好きなアイテムでHPもMP(メンタルポイント)も適宜回復しながら全力で「美とはなんぞや」というラスボスめがけてレベラゲを怠らず生きていこう。改めて「ケツイ」がみなぎる期間でした。

コロナ_伊豆の星空
愛機

 

コロナ禍の中にある希望

工学部3年 T.M.

 
新型コロナウイルスのせいで友達と会えない…。旅行に行けない…。何もできない…。非日常的な状況に陥ったからこそ、身に染みて感じる日常の大切さ。コロナ禍におけるオンライン講義を受けながら、外出自粛をしていた頃にそんなことを考えていた。だが、本当に「何もできない」のだろうか。そうではない、と気づいたのはそれを考えてから間もなくした頃であった。
夏休みに予定されていた留学もキャンセルになったことはつらいことだったが、逆にそのおかげで自分自身と向き合う時間を持つことができた。自分は何がしたいのか、何が好きなのか。そして気づいたのは、「モノ作り」をしていきたいという想いであった。自分自身と向き合えたからこそ得られた自分自身の考えや将来への希望。これらは今後生きていく上での糧になるかもしれない。何もできない中でも何かできないかと模索する。そして、模索して何かを見つけた先に希望はあると私は信じたい。

 

大学で学ぶこと ~真理がわかるだけなのか~

理科一類2年 T.M

 
新型コロナウイルス禍により家計が悪化した学生の実態調査に携わる機会があった。家計が深刻に悪化したと回答したのは1割となった。ここで何ができるかを考えるのが学生自治団体役員としての仕事だが、オンライン化で話をする相手は狭まり、本当に何が望まれているのかを考えることは普段以上に難しい。本学学生の将来はそれなりに安定しているとされる。そうした者として、もっと遠くにある苦しい環境のことを、荘厳な図書館の閲覧室からどれほど想像できるのか、不安になる。本学のような日本の中心を担うとされる学生が相手のことをなんとなくわからないというこの溝が、社会の相互不信、対立の一因にあるのではないかとさえ思う。
実態を明らかにし問題の構造を読み解くことは社会科学のみならず科学的営み全体の醍醐味のようだ。真の問題解決は学問なくしてはないのかもしれない。だが、学問の世界にいることがかえって周りを見えなくするようで、もやもやが残る。

コロナ_東京ビル群望む
東京のビル群を遠くに望む

 

大切なもの

文科二類2年 ちはや

 
高校生の頃は、東京に対する憧れが人一倍あった。東京の地名を聞くだけでワクワクした。自分を認めてくれる世界がそこにはあると思った。その数年後、念願の東京ライフが始まった。授業、サークル、遊び、バイトなど大学生が経験できるすべてのイベントを詰め込んだ、とても充実した一年間を送ることができた。けれど、今年はオンライン授業になり、そういった「楽しみ」もすべてなくなった。東京での大学生活を謳歌していた私だから、悲しくなるのが当然なのに、緊急事態宣言が出たときの私は「実家に帰ろう!」と、とても楽しみにしていた。きっと私は、心のどこかで東京という喧騒から離れ、実家に帰りたかったのだと思う。実家に戻ってから、家族と生活することがこんなにも幸せだと心から実感した。高校生の私はわからなかっただろうけれど、新型コロナウイルス禍があったからこそ身近な、けれど究極の、幸福を再確認できた。

 

ずるくない?

理科二類2年 N.H

 
新型コロナウイルスが跋扈ばっこする昨今、PCR検査やワクチンの話題には誰もが興味津々である。私のまわりの東大生で生物に詳しい人たちは、そのような話題に乗じて己の知るところを開陳してご満悦である。一方私はといえば、大学では生物の講義はそこそこに物理ばかりしていたのでそのような状況は望むべくもない。これは、ずるい。いや、現在人類がコロナによって被っている苦しみに比してあまりに些細な感情であることは承知している。新型コロナウイルスが引き起こす社会問題、みたいなもう少し崇高なテーマを論じろよというのもわかる。
しかしだ、ずるいものはずるいのだ。私だって話題に乗じて、さりとて内心大威張りで万有引力の話とかしたいのだ。なんかちょっと専門的な知見とか求められたいのだ。斯くなる上は、いっそ誰にも迷惑をかけないところに隕石でも落ちてくればいい、と思う。そして能うならばこの地に蔓延るコロナウイルスを悉く吹き飛ばしてしまえばさらにいい。

 

コロナ思考

教育学部3年 K

 
新型コロナウイルス禍は、私を否応なしに思考の沼に引き摺りこんだ。今まで深く考えずに日常を享受していたが、失われたもの、失われなかったものについて再考する余地が生じたように思う。自分が何をしたくて東大に入学したのか、何をしているのか、何ができなかったのか、内省を深めることができた。また同時に、このコロナ禍をどうにかして学問しようとする東大の、飽くなき探究心も身に染みて感じた。
起きてしまったことはもう仕方がないのだ。大切なことは、これをどうやって活かしていくのかなのである。せっかくなのだから、とことん突き詰めて考えていきたいものだ。

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企画・構成/「キミの東大」編集チーム