新型コロナウイルス禍――今、東大生は考える(18)
コロナ禍の東大 2021.11.01
2021.04.01
#新型コロナウイルス感染症 #新型コロナウイルス感染症 #オンライン授業 #オンライン授業
異例の大学生活に直面した東大生のショートエッセイ 第12回
2020年から始まった新型コロナウイルス感染症の流行を受け、東大では授業はもちろんのこと、学生の交流や課外活動にも大きな影響が生じています。様変わりした大学生活を送る中で感じたこと、考えたことを、東大生に綴ってもらいました。
コロナ禍の下での学生生活も一年が経とうとしている今、この一年を振り返ると良いことも悪いこともたくさんあったと感じます。私の場合残念だけど悪いことの方が先に浮かんで、人との会話は格段に減ったし(コロナを言い訳にしたくはないけれど)勉強のモチベーションを保つのが苦手な私にとって自宅でひとり試験勉強するのは苦痛でしかありませんでした。
でも良いことも確かにあって、例えば東大入学を機に上京し今はいわゆる下町に住んでいますが、都心に出られないぶん近所に出かけることが増えると、夕刻に近くの河川敷まで走れば富士山をバックに綺麗な夕日を眺めることができたり、ステイホームだからと筋トレを張り切ったせいで痛めた肩を治してもらいに通い始めた整体は住人の憩いの場だったり、商店街の美容室の前を通れば声をかけてもらえるようになったりと、東京も無機質なだけじゃないんだという面白い発見がありました。
コロナなんて撥ね退けて今新しいことに挑戦している友達を見ると焦ることもあるけれど、自分にとってこの時間が何につながるのかわかるのはまだまだずっと後の何十年後かになるのかなあと思っています。だからその時に今が意味のある時間だったと思えるように、些細な楽しみや小さな目標でいいから少しずつ前進してこの状況を乗り越えていきたいです。
ずっと家にいたこの1年で、韓国ドラマにすっかりハマってしまいました。
こう言うと、大人気の「愛の不時着」や「梨泰院クラス」を連想される方が多いのかもしれませんが、私の場合、引き金となったのは何ということもなしに観始めた歴史ドラマです。
受験のためにたくさん覚えた世界史の知識が、まだ残っていた時期だったからかもしれません。「戦う」というよりも「舞う」という動詞のほうがしっくりくるように思える、芸術的な殺陣シーンに惹かれてかもしれません。あるいは、日本や中国と似ているようでやはり大きく違う、衣装や調度品やしきたりの興味深さからかもしれません。とにかく面白くて面白くて、すっかり夢中になってしまいました。
劇中の挿入歌も素敵で、それを歌えるようになりたいという思いから、ついには韓国語の勉強まで始めてしまいました。これを機会と捉えて、言語と文化の知識をまた1か国分増やせたら、と思っているところです。
三月で私が東大の大学院に入学してから半年となる。
その間、私は一度も日本の地を踏んでいない。
コロナ禍の中、留学生では別段珍しくはないだろう。入国の為の書類が発行されなかったり、発行されても許可が下りなかったり、一時的にまた発行が止められたり。ここまでくると正直コントのようで笑える。
しかし海外から東大の大学院生として過ごす中、事務的手続きが実に不便だ。研究は初期段階で充分やることはあり、授業はオンライン。先生が太平洋の向こうだろうが講義は難なく聴ける。だが手続きの多くは、実物の書類を、日本に、期限内に、送る。
そう求められるのだ。
勿論特殊な状況下、事情を説明するとデジタルでも良いと快諾され、安堵する。同時に気付いてしまう。
デジタルで良いならば、何故それが主流ではないのだろう?
デジタル庁設置が議論され、判子を押す為に出社するのが非効率だと言われている今、事務的手続きの改善に期待したい。そして合理化された手続きが一般的となった折には「私が学生の頃には」と海外から東大の大学院生をしていた事と、実物の書類を郵送していた事を、与太話のように話してみたいものだ。
昨年突如始まったオンライン新歓を、今年も行わねばならないことになった。現在の感染状況では例年と同じような対面の新歓行事の実施は困難で、名物のオリ合宿も中止になった。そんな中、私は新歓を管理する学生自治団体の委員を務める機会を得た。
昨年のオンライン新歓では適応できたクラスやサークルとそうでないところとで大きな差が生じたことが、徐々に明らかになってきた。うまくSNSを活用して新歓に成功したサークルは例年以上の新入部員を集めたが、ほとんど新入部員が入ってこなかったサークルもあった。一方クラスについても、最近の委員会の調査の結果ほとんど上級生からの新歓を受けなかったクラスもあることが明らかになった。
オンライン新歓は、これまでにない長所を新歓に取り入れる絶好の機会でもある。今自分にできることは何か、どうしたら来年の新入生に最大限の新歓を提供できるか、一委員として試行錯誤を進めていきたい。
春休みに入りパソコンの画面と向き合う日々から解放されることを期待したが、数えてみると直近の30日間でパソコンを開かなかった日はゼロ、という惨憺たる結果だった。如何にZoomが自分の生活に根付いているかを思い知ったため、Zoomに教えてもらった大切なことを書き留めておくことにする。
それは、「一人一人が置かれた環境は異なる」ということだ。当たり前じゃないか、と思われるかもしれない。しかし、対面の交流では、私とあなたの間には同じ空間が共有されていて、その時点で違いを覚えることはないだろう。服装や髪型、性格などの属人的な要素は異なるにせよ、それらは「個性」に集約され得る。
反面、Zoomによって露わになるのは、対面の交流では考慮する必要がない「場」の違いであり、それは時に生活を密接に反映し、覗いている者にその人の本質に触れるような感覚を与えうる。私とあなたを形づくる環境、それが異なることを痛烈に思い知らされるのだ。
「一人一人が置かれた環境は異なる」というZoomからの学びについて、具体例を挙げて説明したい。
Zoomを使ったことがある方ならば容易に想像がつくと思うが、Zoomをしている最中は、画面上に映る情報しか相手の様子を判断する材料がない。Zoomの画面の外にどんな資料を広げていようと、あるいは手元の携帯電話で何を検索していようと、画面に映らない限りは相手が何をしているのかわからない。
そもそもZoomに接続するための機器が異なる可能性も高い。スマホなのか、iPadなのか、それともデスクトップなのか。このように相手と自分が眺めているものが異なるということは、その邂逅への参加意欲も大いに異なり得る。相手と自分の置かれた環境、ひいては視座や価値観にも差異がある、という至極当たり前の、されど「場」を共有する対面の交流では忘れがちなことを改めて実感するZoom生活である。
参考リンク
他の回の記事はこちらから